入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー124

この下向に当たり、将軍義詮が同年8月25日付けで大宰府天満宮司大鳥居信高に宛てた文書や、義行自身が渋谷重門に発した文書によれば、当時義行が武蔵守であったことがわかります

この後、義行は、九州渡海を目指して中国地方へ進み、備後・備中の守護職を兼任して両国の所務を行い九州下向に備えましたが、ついに実現せず、応安3年(1370年)今川了俊と交替し帰洛しました、この時のことを伝える『花営三代記』には「渋川武州禅門京着」とあって、義行がすでに出家していたことを示しています

帰洛後の義行は引き続いて備中守護職を執行していましたが、『尊卑分脈』によると永和元年(1375年)8月11日に28歳で卒したとあります

この没年については永和2年正月まで生存していたと思われる史料があることから疑問がありますが、永和年間の死去は大過ないと思われます、こうしてみると義行の一生は九州下向を前提とした備中・備後経営にその大半を費やしたことになります、従って義行は武蔵に赴く余裕はなかったと思われ、義行の武蔵下向・蕨築城説は成立しがたいことになります