入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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◇ 蕨の歴史ー129

数少ないこれらの史料を参考にしつつ弘化3年(1846年)の成立と伝えられる「蕨御殿の図」を検討してみると、御主殿社を祀る主郭とおぼしき方形の曲輪(くるわ)を中心に南へ二つの曲輪、北にも曲輪状遺構が配されており、微高地の上に南北に連続した連郭式の曲輪配置が読みとれます、大手口は元蕨から蕨宿へ通ずる古道の存在から、南に向けて開けていたと思われます

主郭は『埼玉県史料』によると、郭内部・土居・堀を含めおよそ70間(約126m)四方、面積は一町六反五畝歩余、方形館の形状を呈し、濠堀の幅は6間(約11m)、濠堀の内側には幅4間(約7・3m)の藪土居がめぐらされているとあります、但し、土居高、濠堀などの形状や深さについては記述がなく明らかではありません、今後の一層の史料調査や発掘による確認が望まれるところです

郭内の広さは古図面に縦48間(約87m)、横36間(約65m)と記載があり、およそ五反七畝十八坪となります、但し城跡の面積については種々の見解があります、主郭の南には虎口と馬出しが認められ付属の郭に続いています、馬出しには、近世初頭に蕨御殿が置かれたらしく、『御殿村』の地名を遺しています

主郭の東北には濠堀に隣接して武の神である八幡社(現在の和楽備神社)が祀られ、同社には天正11年(1582年)9月付の「蕨の郷守護 若宮八幡大菩薩」の銘記を持つ木造僧形八幡神立像が御神体となっており、蕨城の守護神としての役割をうかがわせます

郷堀には木橋が架けられており、大永4年(1524年)3月20日、江戸城を攻略した北條氏綱が余勢をかって蕨城を攻略した際、焼け落としています、その橋は「門橋」とあるので、大手側に架けられたものだったのでしょう

現在、北の濠堀は東北角に和楽備神社の社務所が建てられ、また、その一部は同社の社池となっており、わずかにその面影を残しています