入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー120

義鏡は公方政知を補佐して成氏討伐に当たるはずでしたが、上杉氏との不和・反目もあってなんら実績を挙げることができませんでした、上杉軍も同3年10月、武蔵の太田庄・上野海老瀬口(えびせぐち・群馬県板倉町)・同羽継原(はねつぎはら・群馬県館林市)の戦いで成氏軍に大敗し、成氏の北関東における優位が明らかとなり、幕府や堀越公方の権威は失墜しました

加えて同年11月、成氏に対峙して武蔵浅草に在陣していた義鏡の縁者と思われる渋川伊予守(略系図では叔父にあたる)が病死し、その被官達のある者は伊豆の足利政知のもとに、ある者は鎌倉に入るなど分散し、板倉に属するものは相模の一の宮(神奈川県寒川町)に陣を取るなどして、政知側の軍事力の弱さを露呈していました

退勢挽回を図った政知は、鎌倉入りを望みましたが、将軍義政の抑止で進軍を断念し堀越に止まりました、こうして勢力基盤の弱い堀越公方は、在地諸将に対する軍勢促進も充分に行い得ず、政知発給の文書もほとんど残していません、上杉氏の勢力外の北関東諸将の糾合は幕府自らが当たらねばならなかったのです、このような弱体な政知を補佐せねばならなかったのが渋川義鏡でした