入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー122

ところが、政知ー義鏡体制は所詮幕府の力を背景とする政権であったため、長期にわたり関東諸将に君臨してきた古河公方には対抗し得なかったのです、また、政知らの勢力も鎌倉に入れず、伊豆の堀越に止まる弱小政権でしたから、幕府の権威の衰退と共に急速に勢力を失っていきました

さらに、両上杉氏に代わってその家宰の太田・長尾両氏が抬頭してくると、相対的に渋川氏は国人領主クラスとなり、太田氏と連携もしくは従属の道をたどることになります、それに「応仁の乱」の一因となった義鏡の実子斯波義廉(よしかど)の失脚が、一層それを加速させたとみられます

渋川氏と蕨郷との関係についても先述の観応3年(1352年)6月29日付けの「渋川直頼譲状写」によって、その領有が直頼の観応3年6月以前に遡り得ること、蕨郷が上・下に分かれたかなりの郷域をもっていたこと、その領有が足利一門の名家として尊氏・直義兄弟と深いかかわりのあること、観応3年6月に直頼が持っていた所領所職が22か国26か所の一つとして蕨郷が直頼から嫡子金王丸(義行)へ譲与されたことなどが明らかになりました