2011-07-25 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー133 次に、土橋の庄野家は、栄左衛門義春が正清(義基)の旗本として従い討死しました〔上尾市平塚蜜厳院の「薬師如来縁起」では、蕨城主渋川左衛門尉俊公が里見義弘・小笠原信秀らと結び北条氏康と鴻の台で合戦(第1次国府台合戦)して自害したとあります、正清が俊公に、渋川氏が天正4年(1576年)房州里見派として北条氏康と戦ったなどと史実の把握に混乱がみられますが〕 この時、家老の一人の吉田宇右衛門信秀も討死し、残った家老の庄野折(織)部が主君の守本尊である薬師如来を上尾市蜜厳院に納めたとあり、吉田家とともに庄野家が渋川氏の家老を勤めたことがうかがえます、また「足立坂東起本山開山記」では、下蕨の川島氏も渋川氏の家臣であったとあります 渋川氏の家臣の中で注目すべきは板倉氏です、「板倉家系図」によると同氏は渋川氏の一族で系図の始祖頼重は渋川義基の弟とされています、頼重は三河国額田郡小見村に移り松平氏に仕え、その孫勝重が家康に仕えて慶長6年(1601年)京都所司代になっています 渋川氏の始祖義顕は渋川次郎ー板倉二郎などと称し、両氏の関係の深さを示しています、応永16~17年ごろ(1409~10年)板倉宗寿は九州探題渋川満頼の下で筑前・肥後などの地において下地遵行・寄進などを行っていましたが、長禄年間(1457~60年)渋川義鏡の関東下向の際には、板倉大和守頼資が先立として下向しており、終始渋川氏の有力被官として活躍しています 文明9年(1477年)5月の長尾景春に対する武蔵用土原合戦には、板倉美濃守が太田道灌方として活躍しています、永禄10年の上総三舟山合戦には家老として参戦しましたが、敗戦により逃れて蕨に帰り、帰農したと云います