入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー131

この時に、主君渋川氏とともに討死にした家臣名などから、家臣団の一端を知ることができます、但し、それらを伝える史料は後年の成立になる記録・系図などが主で信憑性に乏しいのですが、その大要は知ることができます

また、城主渋川氏の悲運を嘆き悲しんだ夫人が、侍女一人を伴い上州榛名湖に入水自殺したという宝樹院に伝わる「宝樹院殿・龍體(りゅうたい)院殿」伝説も、この時の討死を契機として生じ、後世に伝えられることになったようです

「蕨城主渋川公戦死略歴」(庄野家旧蔵)によると、上総三舟山合戦において、「智仁勇、三徳の若大将」である渋川左衛門正清は、第一軍は塚越五郎左衛門勝成、第二軍は岡田織部隼人、第三軍は倉田十郎義康、第四軍は鬼茂忠、第五軍は大将正清が統率し、旗本庄野栄左衛門義春を従えて出陣、その勢は三千騎であったと言う

ところが敵の術策におちいって敗北し、正清は里見軍の将中山三左衛門に首を刎ねられ討死しました、この時鬼茂忠は三左衛門を切りつけ、主君正清の首を奪い返し、いずくともなく落ちていき、残りの渋川兵は大挙して討ち入り戦死したと言います