入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー141

その後も佐々目郷農民の抵抗は相変わらず続きました、しかし、鶴岡八幡宮に対し、農民の一致団結と近郷の悪党や或いは政所を取り込んで強硬な闘争を展開していた佐々目郷農民も、こと武力を伴う国人領主が相手となるとその対応に大きな違いを見せました

寛正元年閏9月(1420年)、太田道灌から佐々目郷に対し、軍役費としての反銭(たんせん・段銭、段別を基準とする賦課税)100貫文納入を命じてきました、農民らは何回も免除の訴えをしましたが、受け入れられず、やむを得ず今年70貫文、来年30貫文という分納を嘆願しましたが、拒否され、太田氏の武力の前に供僧や農民は屈服し、翌月には全額一度に納入しています

次いで翌2年5月には、夫馬(ふば)の提供が命じられ、農民らは年貢納入に支障を生じるので免じられたいと供僧らに申し入れますが、供僧らは太田氏の兵糧料所となっており、夫馬借用要求の撤回はできないとする弱腰の態度を示していました

このことも太田氏によって前回同様強制されたと見られ、鶴岡八幡宮に対しては強力、組織的抵抗を展開した農民も、太田氏の武力強制の前にはなすすべがなく、ここに中世農民闘争の限界を見ることができます

なお、当時は、堀越公方足利政知の関東下向という新局面を迎え、渋川氏を中心とする堀越公方側と古河公方足利成氏勢との間に軍事緊張が高まっていた時であり、太田道灌勢の佐々目郷侵入は、そうした状況を背景としたものであったことは云うまでもありません