入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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◇ 蕨の歴史ー180

寛正の大飢饉に代表される全国的な大凶作や戦乱の続く中で、領主鶴岡八幡宮と果断なき年貢減免闘争を続けてきた佐々目郷農民に対し、長禄から寛正年間(1457~66年)に入ると鶴岡八幡宮の支配に加え、新たに強力な国人領主太田資長(道灌)の武力を背景とする収奪が行われてきましたが、太田氏への貢進は文明18年(1486年)道灌の横死により消失します

佐々目郷に対する鶴岡八幡宮の支配は後北条氏の治世下にあっても継続されています、後北条氏の武門としての八幡宮に対する崇敬の念は強く、また、佐々目郷は後北条氏に対決の姿勢を崩さなかった岩付城主太田資正後北条氏との勢力の接点に位置する軍事要地でもありました

この地を選んで鶴岡八幡宮に寄進したことは、とりも直さず太田氏らの反後北条勢力を抑え、武蔵支配を実現しようとする氏綱・氏康父子の強い意志の表れとみられます

永禄4年(1561年)上杉兼信による小田原城攻めで、一時窮地に立った後北条氏は、やがて武田信玄信濃進出を警戒し急遽撤退する兼信軍を追撃して、翌5年2月下足立に進攻し、太田資正らと戦闘を交え、蕨や佐々目郷に火を放ち、同地を戦禍に陥れました

しかし、永禄7年8月、資正が北条氏の支援による氏資のクーデターで岩付城から追放されると、佐々目は再び戦禍に見舞われることなく、以後、後北条氏の厚い保護のもとに鶴岡八幡宮の佐々目郷支配は継続されたのです