入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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◇ 東国の古代豪族と仏教ー4

埼玉県埋蔵文化財調査事業団副部長 高橋一夫氏 論文より

「東国各国の初期寺院は多少の年代の差はあるものの、7世紀後半には建立されている、その後、各郡に寺院の建立がはじまった、その状況を武蔵国において見てみよう」

「最古の寺院は先に述べたように、7世紀前半の寺谷廃寺である、寺谷廃寺は比企郡に属す、その後、7世紀後半には橘樹(たちばな)郡に影向(ようご)寺廃寺、入間郡に勝呂廃寺、幡羅(はたら)郡に西別府廃寺、榛沢(はんざわ)郡に馬騎(まき)の内廃寺が建立された」

影向寺廃寺の創建期瓦は2種類ある、第一のタイプは山田寺式軒丸瓦の変化したもの、つまり棒状子葉(しよう)が加えられた単弁八葉蓮華文軒丸瓦である、第二のタイプは第一タイプの瓦に面違鋸歯文の退化した線鋸歯文がつく軒丸瓦である」

「本来、面違鋸歯文は複弁につくという複雑な様相を示している、どちらが古いか議論のあるところであるが、面違鋸歯文が退化していることを考えると、第二タイプの方が新しいものであると思われる、創建は7世紀後半でも終末に近い時期だろう」

「勝呂廃寺の創建瓦も棒状子葉をもつ単弁の軒丸瓦であるが、武蔵国では、棒状子葉をもつ単弁の瓦は橘樹郡影向寺廃寺と入間郡の勝呂廃寺及び比企郡に多く見られる、勝呂廃寺の創建瓦も比企郡内の赤山窯跡から供給されている、勝呂廃寺の創建瓦は素弁十葉に棒状子葉がつくもので、山田寺の影響というよりも在地で系譜が追えることから、在地で展開していった軒丸瓦であるということができる、その年代は影向寺廃寺よりも古く、7世紀第3四半期に位置づけることができよう」

入間郡には国の正史名を残した物部直広成(もののべのあたいひろなり)(後の入間宿禰)がいる、その一族はその名からし入間郡内の有力豪族であったと考えられる、勝呂廃寺は極めて大きな寺院であった、その全容は把握されていないが、最近の発掘調査によって銅の塔の相輪が出土したことから、七堂伽藍をもった寺院であったことが想定されている、入間郡内には勝呂廃寺に匹敵する寺院は存在しないことから勝呂廃寺は入間宿禰一族によって建立されたものと考えられる」

「馬騎の内廃寺は山頂付近にある1種の山岳寺院である、山頂の平場に主要伽藍があり、その周辺に僧坊と思われる小さな平場がいくつも存在する、創建瓦は素弁十葉蓮華文軒丸瓦で、瓦の様式から見て、寺谷廃寺に次ぐ古さをもっており、7世紀中ごろに比定することができる」

「馬騎の内廃寺の近くに100基近くからなる中小前田古墳が存在する、この古墳郡の6号墳から7世紀初頭の末野窯跡産の須恵器が出土した、末野窯跡は南多摩窯跡郡・東金子窯跡郡・南比企窯跡郡とともに、武蔵4大窯跡郡の1つに数えられている」

「7世紀初頭という時期は、まだ須恵器は一般生活には普及しておらず、須恵器窯は古墳の副葬品を焼いていた、中小前田古墳群から末野窯跡産の須恵器が出土していることから末野窯の経営者は、中小前田古墳群の築造者を想定することができる」