入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 東国の古代豪族と仏教ー3

埼玉県埋蔵文化財調査事業団副部長 高橋一夫氏 論文より

「次に、古墳の動向を見てみよう、この周辺の古墳の石室は、600年前後に横穴石室から胴張り横穴式石室へと変化する、この600年前後という時期は、羽尾窯跡で須恵器の生産が開始される時期でもあり、注目される現象である」

「金井塚良一氏は、比企地方への胴張り横穴式石室は、横渟屯倉(よこぬのみやけ)の管掌者として、6世紀後半に畿内から移住してきた壬生吉士(みぶのきし)氏によってもたらされたと考える、そして、胴張り横穴式石室の分布の広がりから、その後、壬生吉士氏一族は比企地方を中心に勢力を拡大すると推察する」

「関東最古の寺院である寺谷廃寺の建立は、在地の技術だけで成立するとは考えられない、寺院の建設は当時の技術の粋を集めたものである、当然、各種技術者が必要となる、おそらく、寺谷廃寺の造営には畿内から各種技術者の派遣を仰がねばならなかったことだろう」

「羽尾窯跡・胴張り横穴式石室の登場から平谷窯跡へ、そして寺谷廃寺へと移行するが、羽尾窯跡から寺谷廃寺への移行は時間の断絶なく行われている、これは偶然の出来事ではなく、経営主体が同一であることを示している、その経営主体とは畿内と密接な関係をもっている氏族で、壬生吉士氏一族が有力候補者として浮かび上がってくる」

「羽尾窯跡の発掘をしていて不思議なことが1つだけあった、それは灰原(はいばら)の位置である、通常、灰原は焚き口の下にある、不用なものは下にかき出すのが一番合理的であるからである、確かに、下にも薄い灰原は存在した、だが、灰原は通常では考えられない窯体の横の斜面部にもあったのである」

「こうした例は知られていない、当初はそこに窯跡があるものと思って発掘を開始したが、そこに窯跡は存在せず、灰原が確認できたのである、灰原から出土した須恵器の甕と窯体内部にあった須恵器の甕と接合することができ、また窯跡は1基しか存在しなかったことから、その灰原は羽尾窯跡の灰原であることに間違いはない、灰原が形成された時期は、窯の中に最後に残った須恵器と接合することから、羽尾窯跡の最後段階に近い時期が想定された」

「どうして、焚き口より上に灰原が形成されたのだろうか、投げ上げるのと、かき出すのでは、労力に相当の差があるはずである」

「みると羽尾窯跡のすぐ下に五厘沼と呼ばれている溜池がある、つまり、羽尾窯が操業している段階で、溜池が造られたために、灰や焼土、割れた須恵器などをかき出すことが出来なくなったのではないかと、考えられる、岩盤を掘削してまで築いた羽尾窯跡は、溜池のために操業が不可能となり、新たに平谷窯跡が造られたのであった」

滑川町には溜池が多い、その多くはいつ築かれたかはわからないが、五厘沼という溜池は、7世紀初頭に築かれたと考えてほぼ間違いない、溜池の技術も畿内からもたらされたものであろう、寺谷廃寺を取り巻く考古学的現象は、600年前後を境に畿内色の強い環境へと変化する、寺谷廃寺はこうした環境の中で築かれたものであり、従来からの在地勢力によって造営されたものでなく、畿内と密接な関係にあった豪族によって造営された寺ということができよう」