入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

イメージ 1

◇ 東国の古代豪族と仏教ー2

埼玉県埋蔵文化財調査事業団副部長 高橋一夫氏 論文より

大化改新の主人公の一人である蘇我倉山田石川麻呂は、大化改新の4年前の641年(舒明13年)、山田寺の造営にとりかかった、そして、7年後の648年(大化4年)にはすべてが完成していたらしい、山田寺は石川麻呂が造営した寺として有名であるが、1982年(昭和57年)に東回廊の1部が発掘調査され、その部分が倒壊した状態のまま残っていた寺として全国にその名が知れた」

山田寺の流れをくむ瓦は、東国のいくつかの寺々の創建瓦として採用されている、いずれも7世紀後半の寺である、飛鳥様式の瓦は、山田寺様式の瓦が関東に普及することによって姿を消していくことから、7世紀後半まで下ることはない、こうしたことから寺谷廃寺の瓦の年代は、山田寺が完成したと考えられる648年以前の7世紀前半に比定することができるのである」

「寺谷廃寺の瓦は日本にその類例を求めるならば奈良市横井廃寺、朝鮮半島に目を向けると630年には創建されていたと考えられる百済の東南里廃寺の軒丸瓦と類似している、このように7世紀前半と古く、また百済の瓦とも類似した瓦が屋根を飾った寺院が、古墳時代には大きな前方後円墳が存在するわけでもなく、それほど有力な豪族がいたとは考えられない比企郡滑川町の地になぜ建立されたのであろうか、周辺の考古学的現象からこの謎をさぐってみる」

「寺谷廃寺の立地する台地の斜面に、羽尾窯跡という須恵器の窯跡がある、窯は岩盤を掘削して築かれており、須恵器は6世紀末から7世紀初頭という年代をあたえることができる、その間に窯は3回の改築が行われている、羽尾窯跡で焼かれた須恵器の器種は、古墳に副葬される須恵器の器種と類似している、このころの東国では、須恵器の窯は少なく、武蔵国では6世紀前半から断続的に存在はするものの、ひとつの地域で長く継続して操業することはなかった、つまり、須恵器生産の技術は在地では継承されなかったのである」

「羽尾窯跡も古墳の副葬品を焼くために築かれた窯であり、須恵器は畿内タイプのものであることから、畿内から須恵器工人を呼び寄せて須恵器を生産させたものと思われる、このように畿内から須恵器工人を呼んだ氏族は、畿内と密接な関係にあったことが予想されるのである」

「羽尾窯が操業を中止した直後、寺谷廃寺が立地する台地をはさんだ西側の台地に平谷(ひらやつ)窯跡が築かれ、操業を開始した、須恵器の形態から見て、同一工人かその流れをくむ工人によって生産されたものと考えられる」