入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 東国の古代豪族と仏教ー13

埼玉県埋蔵文化財調査事業団副部長 高橋一夫氏 論文より

律令時代の地方豪族は、郡司になるかならないかは経済的にきわめて重要なことであった、郡司は終身制であった、そこで、郡司に登用されなかった他の有力豪族は、郡司の追い落とし策として、正倉への放火の挙にでたのである、神火は8世紀後半から9世紀にかけて集中し、関東各地にみられた現象である、いわばこれは権力闘争のあらわれとして理解してよいだろう」

「氏寺から郡寺への変化は、単に勝呂廃寺だけではない、地方有力豪族が氏寺として建立した寺院は、それら豪族が地方官人として郡司に登用されていく段階で、郡衙の附属寺院としての性格を強く帯びていくのであった」

「その後の国分寺の造営は、これら地方官寺系寺院の総本山的意味あいもあった、しかし、地方において実権はすでに有力豪族(郡司層)が握っていたので、国司の力だけでは国分寺の造営は進まなかった、そこで、朝廷は、748年(天平19年)地方豪族に国分寺造営の協力を要請し、協力したものには末代まで郡司職に任用することにした」

武蔵国の状況をみると、国分寺造営後は国分寺で使用した瓦が各地に、それも一堂しかないような小寺院と思われるところから出土することから、小豪族までもが国分寺の造営に協力したようだ、郡司職は終身制であった、郡司が失政をし、更迭されなければ途中から郡司になることはできない、8世紀から9世紀にかけて『神火』と称する郡正倉からの出火は国分寺造営の後遺症ということもできよう」