入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 東国の古代豪族と仏教ー12

埼玉県埋蔵文化財調査事業団副部長 高橋一夫氏 論文より

「神火の起きる1年前、物部直広成は仲麻呂追討の功により入間宿禰を賜っている、ときに正六位上である、このように入間郡における2大豪族の1方の雄の物部氏は、入間宿禰の姓を賜ったことは、入間郡におけるその地位を朝廷によって認められたことを物語っている、郡司も代々物部氏が登用されていったのではないかと考えられる」

「大伴部赤男が西大寺に商布1500段などを献上したのは、神火の先か後かわからないが、莫大な物を献上することによって朝廷の覚えをめでたくし、郡司追い落としのために正倉に放火させたとも、また逆に放火の証拠をつかまれたために、ときの称徳天皇が建立を誓願した西大寺に各種献上したとも邪推できよう」

「いずれにしても、入間郡での大伴部一族の地位低下に赤男はあせりを感じ、最後の賭けにでたのかも知れない、正史に入間郡での大伴部が顔を出すのは、赤男の献上の記載が最初にして最後である、その後、没落していったのかも知れない、入間郡正倉の放火に関して大伴部赤男は『濡れ衣だ』と叫ぶかもしれなが、状況証拠は不利である」

「勝呂廃寺は入間郡内の有力寺院である、勝呂廃寺は以上述べてきたようなことから、入間郡の有力豪族である物部氏によって建立されたと考えていいだろう、当初、勝呂廃寺も氏寺あった、しかし、律令体制が確立するとともに、物部氏も地方官人として律令体制の中に組み込まれ、郡司として登用されていったことだろう、それとともに、勝呂廃寺も氏寺から郡寺へと性格を変えていったのではないだろうか」

「出土瓦からみると、この段階に大幅な改修が行われたようだ、つまり、さきに述べたように女影廃寺系のB系統の瓦が採用され、主要伽藍を飾ったのである」