入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 足立郡衙と足立氏-2

具体的な郷の比定については、これまで諸説ありますが、川口市域は発度郷や大里郷、更に発度郷は鳩ヶ谷市を含むその周辺で発度(ホット)→鳩ヶ谷(ハトガヤ)のつながりが重視されています、大里郷については蕨・笹目・川口にあてる説と、「里」を「調」の誤りとして旧浦和市南部をあてる説があり、また、余戸郷を南足立地方(東京都)にあてる説もありますが、これだと川口市域に関係してくることになります、郷の比定は、これまで、主に地名に拠ってきたのですが、近年、詳細な遺跡分布調査や集落跡の発掘調査も進んできており、考古学的な成果を活用することも可能となってきました

大和政権と上毛野君との対立であろうと思もわれる「日本書紀」安閑元年閏十二月条の武蔵国造の地位をめぐる争い(詳しくは前掲済み)などを経て、大和政権の支配体制は、(埼玉古墳群・稲荷山古墳の鉄剣銘文から分かるように)、5世紀の後半には、地方豪族が王宮に特定の任務を帯び奉仕する制度ができ、畿内の有力豪族に掌握されていました、更に、この支配体制が確立してくると、地方豪族を中間管理者として畿内の豪族の支配下につながる人々が多数生まれました

これらを「部民」と呼びますが、北武蔵地方には大伴(おおとも)氏につながる大伴部、物部(もののべ)氏につながる物部、阿部氏が管理したとされる丈部(はせつかべ)などが多くみられます

川口市とその周辺では、埼玉郡の物部、足立郡の丈部があります、具体的な史実はわかりませんが、毛長川流域のように古墳群が形成された地域でも、前方後円墳に葬られるような首長に率いられた集団全体が、埼玉古墳群の被葬者のような上級首長に統轄され、更に、それが中央豪族につながるという重層的な体制にあったものと考えられます