2011-04-15 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー50 「改新の詔」で示された地方制度では、郡の下に里が置かれ、責任者として里長がいましたが、里は霊亀元年(715年)に郷と改められ、郷の下にいくつかの里が設けられることとなりました、『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には、足立郡の条に7つの郷が記載されていますが、これらの郷は、当初からあったものと考えられます、蕨市とその周辺に設置されていた郷は次の様です 大里郷・・・蕨・笹目・川口のあたりをあてる説、「大里」の里を「調」の誤りとしてさいたま市岸・白幡・根岸・文蔵・辻などのあたりをあてる説、伊奈町大針字大里を根拠に伊奈町一帯をあてる説などがあります 堀津(ほっつ)郷・・・「堀津」は「野堀津」であるとして鴻巣市一帯を当てる説、さいたま市旧与野、浦和西部および戸田市の旧笹目領と呼ばれる地域をあてる説 発度(ほっと)郷・・・さいたま市見沼区風渡野一帯を当てる説、羽生市大字発戸一帯とする説、或いは鳩ヶ谷市一帯を含む旧舎人領の地をあてる説などがあります 令の規定によれば、郷は50戸の郷戸から構成され、一つの郷戸の人数は、現在残されている古代の戸籍の調査から、平均で25人前後であるとされています、従って一つの郷の人口は、1200人から1300人くらいであったと推定できます