入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 足立郡衙と足立氏-3

大和政権による地方支配体制として、6世紀を通じて次第に整えられ、推古朝(600年前後)に至る頃には、既に全国的に確立していたとみられるのが、国造制です(癸己の年・633年物部連兄麻呂が聖徳太子の舎人となり、その功により武蔵の国造に任命されたという伝承もあります)、国造とは王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、大和政権の地方官的な性格を持つものでした

武蔵地方においても、无邪志(むさし)・胸刺(むなさし)・知々夫(ちちぶ)の3国造の存在が知られています(『先代旧事本紀』)、无邪志国造は埼玉郡足立郡比企郡あたりで埼玉古墳をつくり得た勢力、胸刺国造は南武蔵の多摩川一帯の勢力、知々夫国造秩父・児玉・大里郡を支配領域とした勢力と考えられています、国造は、支配領域の行政権・裁判権・徴税権・祭祀権を司っていました、川口市とその周辺は、无邪志国造の領域に含まれていたと考えられます

国造制や部民制など在地の豪族の権力を利用した地方支配から一歩進めたのが、屯倉(みやけ)とその経営でした、7世紀初め頃に関東地方でもその設置が展開されたらしいのですが、それは大和政権の直轄領として生産的基盤をなしたばかりでなく、地方における軍事的基盤ともなっていました

屯倉の経営には、直接、中央の豪族を派遣することもありました、北武蔵地方では、横渟屯倉の管理者として、阿部氏とつながりのある壬生吉士(みぶのきし)氏集団が派遣されたといわれています、屯倉の経営は国造の支配力を削ぎ、大和政権の中央集権的支配への道を開いていったのです