入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 足立郡衙と足立氏-5

「改新の詔(みことのり)」で示された地方制度では、郡の下に里が置かれていましたが、この里は霊亀元年(715年)に郷と改められ、この郷の下にいくつかの里が設けられるようになりました、そして、更に天平十二年(740年)頃には郷の下の里は廃止されています、前にも述べましたが、蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷とその周辺の郷は、およそ次の様だと思われます

<大里郷>・・・蕨(蕨市)・笹目(戸田市)・川口の辺りをあてる説、大里の「里」を「調」の誤記であるとして、さいたま市浦和南部の岸・白幡・根岸・文蔵・辻などをあてる説、伊奈町大針の字大里を根拠に伊奈町一帯をあてる説などがあります

<発度(はっと)郷>・・・さいたま市見沼区風渡野(ふつとの)一帯をあてる説や羽生市大字発戸(ほつと)一帯とする説、或いは鳩ヶ谷市一帯を含む旧舎人領の地をこれにあてる説があります

令の規定によれば、一つの郷は五十戸の郷戸から構成されるとあります、一つの郷戸の構成人員は、現在残存している古代の戸籍の調査から平均25人前後であり、従って一郷は、1200人から1300人位の人口であったものと推察できます

律令制下の地方諸国は、大きく東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道に分けられ、道ごとに都から放射状に各国府を結ぶ官道が設けられていました、武蔵国は当初、東山道に属しており、都からの官道は信濃国から碓氷峠を越えて上野国に入り、上野国府(群馬県前橋市)を経て武蔵国府に至っていました

しかし、8世紀には東海道も利用されるようになりました、東海道は、はじめ相模国から房総半島に渡り、下総国府(千葉県市川市)に達していましたが、武蔵国の南部の通行が容易になると、陸路を利用する方が便利となりました、こうした事情もあって、宝亀二年(771年)武蔵国東山道から東海道に所属替えになっています