入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 東国の古代豪族と仏教ー10

埼玉県埋蔵文化財調査事業団副部長 高橋一夫氏 論文より

「丈部直(はせつかべのあたい)不破麻呂も物部直広成も中央において、高麗郡出身の高麗福信によって引き立てられて行ったと云われている(原島礼二氏・『8世紀の武蔵国造』)、これら氏族と関係のある寺院が女影系軒丸瓦を採用していることは、その見解を証左していると言えよう」

「このように女影廃寺系の瓦は、北武蔵の郡寺、あるいは主要寺院に採用されていくのである、これら女影廃寺の影響を受けた瓦の年代は、8世紀第2四半期でも国分寺造営以前に成立したものと思われる」

高麗郡として推定される地域には、古墳時代の遺跡は存在しない、高麗郡はこうした空白地帯に建郡されたのである、高麗郡の設置には、国家の意志が強く働いていたことを述べた、高麗郡が空白地帯に建郡された理由は、在地豪族に遠慮することなく、自由に建設ができるからであろう」

「この頃は、まさに、国家が律令体制の整備を積極的に推進している時期である、高麗郡設置の目的は、地方行政機構の整備の遅れている北武蔵の地域に高麗郡を設置し、また685年(天武14年)の詔のとおり、郡衙にともなう寺院、つまり女影廃寺を建立し、地方行政機構のモデルを北武蔵全域に示すことにあったと思われる」

「この政策は成功したようだ、8世紀第2四半期はもっとも造寺活動が活発になった時期で、郡寺と推定される寺々が次々に建立されていくのである、北武蔵では、未だ郡衙遺構は確認されていないが、寺院跡を通じて郡衙機構が整備されていく様子が手にとるようにうかがえるのである」

「各郡で群衙を造営し、その付属寺院を建立する時、その本家ともいうべき高麗郡の付属寺院である女影廃寺の軒丸瓦をモデルとしたのである、こうした事実からみても高麗郡は、その目的を充分果たしたということができる」