入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

伊興遺跡補習ー11

足立郡周辺の遺跡と歴史的背景(ⅱ)

奈良・平安時代の「足立」の名の初見は『続日本紀』中の神護景雲元年(767)でした、しかし、近年調査された平城京二条大路出土の木簡群中に、足立郡銘木簡の存在が明らかになり、裏面に「天平七年十一月」と記されていたことから、735年にまで引き下げられることになりました、加えて、この木簡には表面に「武蔵国足立郡土毛蓮子一斗五升」とあり、足立郡の特産物として、蓮の実のあったことが知られるようになりました

「足立」は「葦立」のなまったものといわれ、葦原の原野であったことを彷彿させますが、足立郡内でも蓮の産地は限られ、足立区や埼玉県南東部に産地が限られるとされます、大宮氷川社にほど近い見沼以南がその有力な候補地であり、伊興遺跡もその範囲に加えられるのでしょう

律令時代の毛長川流域は、武蔵国足立郡編入され、最も南端に位置した地域とされています、足立郡には四郷とも七郷ともいわれる郷が存在しましたが、いまのところ群衙のあったとされる群家郷が大宮氷川神社付近とほぼ思われる以外、諸説あるものの、他の郷についてはいまだ不明な状態が続いています

いままで伊興遺跡周辺がこれらの郷とされた例はありませんが、唯一『鳩ヶ谷市史』のみ、伊興周辺から鳩ヶ谷市付近まで、「堀津郷」とする案をて提出しています、地名による郷の比定ではなく、古代集落跡の分布からの見解であることが特色です、また、8世紀前半に、東山道武蔵国府を結ぶ官道が南北に通じていたとする見解がありますが、「堀津郷」を通じていたとも指摘しています(『鳩ヶ谷市史』1992)