入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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鳩ケ谷の古を考える

里字屋敷添第4遺跡・里字屋敷添1212-1他地点調査〈4〉

この調査では、15~16世紀を中心とする室町戦国時代の遺構と遺物が濃密に確認されています、建物の基礎部分のみの調査であるため検出された遺構はいずれも断続的なものですが、周辺の遺構とも相互に連続しており、さらに、全面的に直交関係にあります、その上、現在の区画に合致していることから、一帯の区画軸は、すでに中世には形成されていたことが確実です

第2号溝は、上幅2m深さ1mの大溝で、屋敷添1221-1地点の調査で東南の角部が、1216地点と1215地点の調査でその南中央直線部と西北の角部が検出されています、そして今回の調査において、その南西の角部と北中央直線部が確認されました、東北角部は未確認ながら、ほぼ35m四方に廻る大溝であることが確実となりました、さらに、この大溝に重なって規模が小さい浅い溝跡が認められていますが、この大溝に先行する時代に属し、この方形に廻る大溝がこれに重ねて構築された状況が推察されます

また、この調査では、15~16世紀を主体とする遺物や板碑片が出土しています、1221-1地点においても同時代の陶器とともに明徳2年(1391年)暦応4年(1341年)銘の板碑や馬の骨が出土し、1216地点と1215地点でも同様な陶器が出土しています、出土遺物の種類は常滑窯の壷・片口鉢、瀬戸窯の小壷・小皿・擂鉢、カワラケや土鍋など、生活感のある器種が主です

敷地内部には、掘立柱建物跡1軒と井戸や土坑が多く認められます、これら全ての遺構が時代的に同時存在であるかは明言できませんが、今回の大溝から出土した阿弥陀如来(キリーク)の板碑片が1221-1地点の井戸から出土した板碑と接合したことは、両者は同時存在していたことは確実です、堀立柱建物跡は、帰属の年代は不明ながら1221-1地点においても、この大溝の東南外部にも接するように1軒検出されています、この大溝敷地外部には同時代の大溝が他にも存在しており、その性格は居館跡の一部とも推定されます

調査地一帯では、この大溝や井戸跡などから多数の板碑が出土しています、1221-1地点では、破片を含め17点の板碑が出土し、年代幅は暦応2年(1339年)から寛正6年(1465年)までですが、井戸2から出土した主尊が阿弥陀如来の暦応2年(1339年)銘の板碑は全長137cmほぼ完形で、「本寺大檀那・72歳・行蓮大禅定門」と刻まれています、周辺には「コウフクジ」という地名が伝えられており、この大溝との関係は不明ですが、この銘文から周辺における中世寺院の存在も推定されます

調査地周辺には、大型なこの板碑が出土した井戸2からの破片も含め8点の板碑が出土していますが、記年銘が理解されるのは4点で、暦応2年(1339年)から寛正6年(1465年)までです、その内の1点の板碑が、今回の調査で大溝から出土した板碑と接合したわけですが、大溝がその出土遺物から16世紀に廃絶されたと考えるならば、この大溝と同時代の井戸2から出土した寛正6年(1465年)銘の板碑は造立後、およそ百年前後で投棄されたとも考えられます

35m四方の大溝跡は、その出土遺物から中心的時代は15世紀中頃から16世紀中頃までと考えられます、およそのこの100年は、上杉氏と対立した鎌倉公方が古河に陣を張り、上杉氏家臣の太田氏は江戸城川越城を構え、鳩ケ谷地域に最も関係の深い岩槻城も築城されて両者が利根川や元荒川を境に争い、両者が和睦後間もなく次いで両上杉が対立し、再び和睦するも今度は西から関東に進出して江戸城を拠点とする北条氏と岩槻城の太田氏が再び鳩ケ谷を挟んで戦いを繰り広げ、結局北条氏が関東を制した頃までの時期です

まさに、この区画溝は鳩ケ谷周辺で争いが激化する頃から沈静化した頃に廃絶されたと考えることができ、それは太田道真・道潅親子から資正までの4代・5代にわたる太田氏一族が鳩ケ谷一帯を支配し始めてから去り行くまでの時期でもあります、調査地一帯で出土した多くの板碑で判明する年代は、室町幕府が成立した1330年代の他、上杉氏と古河公方の争いが激化する1450年代に集中しています、その理由が支配者が一変したためかは不明ですが、一括して投げ捨てられたように井戸跡や溝跡から出土している点も示唆的であります、また、鎌倉時代に周辺では広域であった鳩井(鳩ケ谷)郷がこの戦いを通じて徐々に分割縮小されてゆく状況も推察されます

館の区画溝とも推定される35m四方のこの方形大溝跡は、鳩ケ谷一帯が大きく揺れた戦国時代の中で造られ使われ廃絶していったことを物語っているようです、その後は再び居住空間となることなく、新田開発により最近まで水田としてその姿を変えていたのでしょう