入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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古地図で見る川口・鳩ヶ谷の歴史

川口・南平柳地域の変遷ー7

川口・南平柳の両地域は東京と隣接しているものの荒川にさえぎられ、渡船による往来しかありませんでした、1906年(明治39年)4月、沿岸住民の強い要望もあって、1-2図に見られるような船橋(23)が架設され、ようやくその往来が盛んになっていました、しかし、自由な往来とまではいかず、荒川の舟やいかだの通行の際は船橋を開くことから、その都度人馬の往来を中断しました、又、出水時には全く人馬の往来を止めるという不便なものでした、なおこの人馬の往来には橋銭が徴収されました

大正後期に至ると船橋の腐朽や破損が激しくなり、その修復に多額の費用がかかることから、1926年(大正15年)に橋銭の10割値上げを決めています、これは沿岸住民の強い反対に遇い、結局値上げは見送られました、昭和初年の橋銭は人1銭、人力車2銭、自転車3銭、荷馬車8銭となっています、この値上げへの動きが契機となって本格的な架橋を促す運動が起こり、1928年(昭和3年)に新荒川大橋(24)の架設を見るに至ります、この橋の長さ464間(約840m)、幅4間(約7.2m)であったと言います

昭和20年代後半に至ると、大型のトラックや乗合い自動車の走行が激しくなり、わずか4間という橋上を徒歩の人や自転車とともに往来することから、近辺の橋の中では最も危険で渋滞の目立つ所となっていました、ようやく1966年(昭和41年)に下り専用の車線(長さ809m余、幅9m余)、また、1970年(昭和45年)には、上り車線(長さ792m余、幅9m余)がそれぞれ完成しています、架け替え後の橋は上下とも2車線とし、さらに2mの歩道を設けて人と車の接触を避けるように改められました