入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

古地図で見る川口・鳩ヶ谷の歴史

芝地域の変遷ー8

川口市工業都市として発展する中で、芝地域にも大工場の進出が見られるようになります、1934年(昭和9年)には、南部(現在の芝園町)に日本車輌⑯が建設されました、この工場は、敷地面積3万5000余坪、従業員1500余人の大工場でした

1932年には、京浜東北線の電車が大宮まで運転されることになり、沿線の都市化が進展することとなりましたが、芝地域は沖積低地にあるため洪積台地上の浦和などと比べ開発は遅れました、しかし、戦後になると、1949年(昭和24年)に蕨駅の東口が設置され、また、バス路線の整備により芝地域の交通も便利になり、東京や川口市内の工場などに通勤する者も徐々に増え始めました、ただ、水田を埋め立てた大規模な宅地開発は、まだ、進められませんでした

昭和30年(1955年)代初期の姿を表した3-3図に対してその後の3-4図を比較すると、芝地域の大部分が市街地化され、水田がほとんど見られなくなり、この間が明治期以降もっとも変化の著しい時代であったことが分かります

こうした宅地化の急速な進展は、当地域が東北線を利用すれば東京都心まで1時間ほどで通勤できる距離にあることが大きな要因でした、また、1973年(昭和48年)には武蔵野線⑰が開設され東浦和駅ができたことから、柳崎地区⑩を中心として一層利便さが増しました

一方、昭和40年(1965年)代半ば以降川口市では多くの工場が移転し、その跡地にマンションなどの高層住宅が建設されていきましたが、芝地域でも日本車輌川口工場が閉鎖し、1978年(昭和53年)その工場跡地に戸数2454戸の大公団住宅⑱が建設されました

道路交通では、1954年(昭和29年)、川口・浦和・大宮を結ぶ主要地方道(通称産業道路)が開通し、その後も当地域の県道、市道の整備が逐次進められていきました、芝地域の中央を東西に貫通する東京外環状道路が1992年(平成4年)の秋に完成し、当地域にも浦和西、川口西の2ヵ所のインターチェンジが設けられました

これらの施設の立地などにより、当地域は単に東京のベットタウンとしての性格のみならず、首都圏の様々な地域と有機的に結び付いた地域を形成するようになっています