入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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古地図で見る川口・鳩ヶ谷の歴史

川口・南平柳地域の変遷ー6

一方、芝川の水害対策として、当初芝川放流地点に堅牢な樋門を設置する予定でした、しかし、荒川対岸の岩淵町住民の強硬な反対運動が起こり、やむなく中止となりました、そこで芝川を門樋付近から荒川に沿って東流させ、領家地先で荒川へ放流することが立案されました、1920年(大正9年)この計画で開発工事に着手し、1931年(昭和6年)まで工事が続けられました、1-2図にこの工事途中の様子がうかがえます、このときに荒川合流点に樋門が構築され、出水時の荒川からの逆流を防ぐことが出来るようになりました

しかし、これで芝川洪水の危険が去ったという訳ではありませんでした、1938年(昭和13年)6月芝川の大氾濫が起こり、これを契機に再び芝川の改修がせまられました、それは中川・綾瀬川・芝川の三河川総合計画で、この開発工事は1940年(昭和15年)に着工されますが、1943年(昭和18年)に至って第2次世界大戦のため中止されました

戦後、再びこの三河川総合計画が検討されましたが、情勢の変化もあって、新たに弥平町地先⑲を迂回する芝川放水路(新芝川)⑳を高築堤方式で荒川に排水する方針に改められました、つまり芝川と放水路の分・合流地点の青木・領家に水門を設けて、中・上流の出水時には水門を閉めて放水路へ放流するというものでした、この工事は1952年(昭和27年)に着工し、1965年(昭和40年)8月に開削工事を終え、新芝川と命名されました、工事の進行している様子が1-3図に見られます、そして、この工事の間に芝川・新芝川合流地点の領家地先に排水ポンプを設置して荒川へ放水するようにしました

しかし、新たな問題が起こりました、芝川が上流水門と下流水門によって締め切られたために閉鎖河川となり、悪臭の漂う川となってしまったことです、1986年(昭和61年)に上流の水門に取水堰を設けて毎秒0.4トンを下流に放水し、悪臭の除去に努めていますが、依然として芝川は淀みの多い川となっています