2011-04-03 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー38 蕨市周辺の古墳では、古くは植田谷(うえだや)古墳群の名で、旧大宮市南西部から旧浦和市北西部の旧植田谷郷(領)内の古墳を呼んだことがあり、支群として、大久保支群、白鍬支群などと呼ばれていました しかし、現在ではさいたま市の大久保地区の古墳は総称して大久保古墳群と呼ばれています、さらに、南に荒川低湿地を見おろす台地上に土合古墳群があります さらに、南へ行き、戸田市域においては、『埼玉県史』に直刀が現存と記載のある「くまん塚古墳」が知られていましたが、昭和44年の発掘調査で、南原遺跡で古墳時代後期の円形周溝墓3基と共に、古墳(円墳)の周堀の一部が明らかになり、その中から男子埴輪頭部や円筒埴輪が発見されています 大宮台地鳩ヶ谷支台南端には、川口市新郷の高稲荷古墳を主として新郷古墳群があります、また、さいたま市南区の埼玉県立浦和商業高等学校校庭内(白幡本宿遺跡)で行われた昭和54年の発掘調査で、円墳跡が4基発見され、埴輪も出土しました、墳丘は失われていましたが、以後、白幡古墳群跡と名付けられています このように、蕨市周辺は、古い河川に沿う自然堤防上や、沖積平野を見おろす台地上に古墳群が続いていることが判ります、したがって、 蕨市域に於いても、古い河川の自然堤防と思われる微高地などに、古墳の跡が発見される可能性は充分にあると言えるでしょう