入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー23

しかしながら、縄文文化1万年の歴史は、幕をおろす時が来ました、安行式土器の文化がこれほど豊かなものであったにもかかわらず、あたかも瓦解するごとく、縄文文化は終えんの時を迎えたのです、晩期後半になると大宮台地周辺は、遺跡数が著しく減少します

もう、西日本には、新しい文化である弥生文化が始まっていたのです、関東の地は過疎になったのでしょう

そうした中で、蕨市域にほど近い、さいたま市南区白幡本宿遺跡(県立浦和商業高校・さいたま市立白幡中学校周辺の台地上)は、南関東地方縄文式土器の最終末型式である荒海式土器をもつ竪穴式住居跡が集落を作っており、注目されます、埼玉県内にもこの時期の住居跡の発見は、他にはまだありません、今後発見されるとしても極まれでしょう

それにしても、白幡の台地上にこの時期、ムラを作った人たちの生活の糧は何であったのであろうか、広い荒川低地の谷をみおろす台地の先端部に居を構えていたが、生活活動を行うとすれば、低地すなわち水の潤沢な沖積地を利用していたことを、まず考えなければならないでしょう

晩期最終末の遺跡が、低地の湿地に近いところにあることは、全国的に見られることであり、白幡本宿遺跡の場合も居住地は、たまたま、台地上であってもその例に洩れるものではないと云えます、こうしたことが、湿地を耕地とする水稲耕作の時代に、容易に移行できた理由と考えられます、ともあれ、長い縄文時代は来るべき水稲耕作の時代にとって代わられるのです