入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー32

これまで述べてきました遺跡の大部分は、洪積台地である大宮台地に立地しているわけですが、弥生時代は、何と言っても、自然堤防地帯の利用に着目しなければなりません

さいたま市桜区の大久保地区や戸田市域、蕨市域、川口市域には、古い河川が形成した自然堤防が発達したことは既に述べてきました、この自然堤防は、集落地として着目され、そして後背湿地を水田として開発したため、食住接近がはかられたことになります

もっとも、洪積台地上に集落を営んだ弥生人も、耕作地は谷下の洪積地でしたし、場合によっては低地の自然堤防に属する後背湿地であったこともあったでしょう

さいたま市大久保地区の古代集落が存在していることつきとめたのは、昭和42年のことです、埼玉大学の校舎建設にあたり、埼玉大学により発掘調査が行われ、弥生時代中期を初めとして後期、そして古墳時代初頭の遺構・遺物が明らかになりました

もっとも、それ以前にも、自然堤防上に遺物が発見されることはよくあったのですが、埼玉大学考古学研究会を中心に、自然堤防上の古代遺跡の解明はその後も着々と進められてきました

そうした中、自然堤防地帯でもさらに下流に目を向けられるようになりました、隣接の戸田市にはもともと古墳があることは『埼玉県史』(昭和26年刊)にも記載があるのですが、しばらく研究は進んでいませんでした

ところが、昭和42年の春、戸田市域から偶然に弥生式土器が発見されました、このことは、下流の自然堤防地帯の古代文化解明にはかり知れないほど大きな貢献をすることになりました、鍛冶谷・新田口遺跡の発見です

さらに、間をおかずして、戸田市上戸田の前谷遺跡においても弥生式土器の発見がありました、当時、埼玉会館郷土資料室に勤務していた塩野博氏らが担当し、その年の夏と翌年の夏、鍛冶谷・新田口遺跡の発掘調査が行われました、また、昭和47年には、前谷遺跡も発掘調査されました