入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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《戸田の遺跡》

◇鍛冶谷・新田口遺跡第2次発掘調査-16

(1次発掘調査報告併合)

埼玉県に弥生文化が伝播したのは弥生時代中期初頭で、それも、県北・秩父地方・県南の三系統の異なった波及経路がります、戸田市は明らかに県南に位置しており、その文化の系統も南関東系の文化圏にあります、県内では中期の土器はさいたま市埼玉大学構内本村遺跡、さいたま市岩槻区南遺跡などで須和田式土器が発見されています、そして、次ぎの宮ノ台式土器を出土したのはさいたま市見沼区大和田遺跡があります

しかし、この県南地域に農耕を伴った弥生文化が積極的に入ってきたのは、弥生時代も後期に入ってからであり弥生町期です、大宮台地周辺ではさいたま市駒場鎧(よろい)塚遺跡、さいたま市太田窪円正寺遺跡、さいたま市大宮公園内遺跡、さいたま市吉野原遺跡、そして、戸田市鍛冶谷・新田口遺跡など、低湿地を近くに控えたところに集落が営まれました

戸田市鍛冶谷・新田口遺跡は自然堤防上に立地し、その南側には中期入間川(現荒川)の広い沖積地を控えています、特に附近は入り江状を呈しており、ここに農耕が展開されたものと考えられます、すなわち、このように地理的条件の良い所の水田を管理・運営することによって、その労働力を組織して、この地域のどの遺跡よりも卓越した集落が営まれてものと考えられます

そして、当然その豊かな大集落には族長が誕生し、卓越した農業共同体の長として集落民を指導していったものと思われます、ただ、遺憾ながら、この集落の跡は戸田市鍛冶谷・新田口遺跡では未だ発見されていません