2011-03-30 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー34 時代は古墳時代に入りますが、墓制の名称がそれを示すように、我が国の歴史上、最も名実ともに特異な時代と言えます、それほど、この時代の墓制は、特異だったのです 墳丘だけでも全長約480m、面積10ha(小学校なら7、8校も出来そうな広さ)という大規模な仁徳天皇陵(大山陵、大山古墳=大阪府境市)を例にあげるまでもなく、支配する者の死がこれほどまでに大事業を生ぜしめることは、その前にも後にも我が国においてはありませんでした この大事業は、ひとり大王家のみではなく、中央の豪族、地方の豪族を問わず、全国的に行われたのです、古墳時代は、4世紀初頭(最近、3世紀の古墳が明らかになりつつありますが)から大化の薄葬令(646年)による急激な減少と小規模化を経て8世紀に入って姿を消すまで、ほぼ、4世紀に及んだのです 古墳が、弥生時代の方形周溝墓から発達したとする見方もありますが、初頭から前方後円墳が、しかも大規模に築造されることから、従来の方形周溝墓とは、全く異なる考え方で成立した墓制とみた方がよいようです、古墳時代に入っても方形周溝墓は残っていきますが、規模が大きくなるとか、形に変化が出てくるということはないようです、しばらく残存し、やがて古墳築造が当然となり、消滅していったとみるべきでしょう そのあり様は、近畿地方に根拠をもつ大和王家の支配に次々と組み込まれていきつつ、地方の豪族がその地においての権力を誇示していったものと考えられます、そしてそこには、朝鮮半島から休むことなく入ってくる新しい文化と、それを携えた渡来人の活躍など、我が国の古代黎明期に欠くことのできない要素が含まれています