入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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《戸田の遺跡》

◇鍛冶谷・新田口遺跡第2次発掘調査-18

(1次発掘調査報告併合)

次ぎに出現したのが、古墳時代前期前半の五領Ⅱ式土器を多量に含みもち、伊勢湾東岸から天竜川東岸に多く見られる地域性の強い特殊な土器をもっている新田口第1号方形周溝墓です、この時期になると集落の数も増大し、方形周溝墓も各地で発見されています

その方形周溝墓溝内に配置されている底部穿孔土器も、弥生後期の既製の土器の底部を故意に欠いたものに代わって、焼成前穿孔の土器が現れます、この新田口第1号方形周溝墓からも若干出土しています

だが一方では、鍛冶谷第2・3・4・5号や、新田口3・4・6号方形周溝墓のように、ほとんど土器を有しないものがあり、方形周溝墓本来の土器を溝内に配置する行為はなくなり、ただ形だけのものになってしまい、その形も方形がくずれ、楕円形ないしは小判形を呈するものになってしまいます

この五領期Ⅱ末(4C末)には、畿内ではすでに大和政権による支配権が確立し、その勢力は、地方へ波及しだしました、したがって、大和政権による祭祀権の統一が行われた地域では、すでに方形周溝墓の消滅がみられます

東国では千葉県北作1号古墳が底部穿孔土器や、副葬品として多くの土器を出土したように、大和政権の導入はあっても、まだ方形周溝墓の伝統を残している点などからみても、方形周溝墓が地域的には、その一地域の農業共同体維持のために必要かつ重要な位置をしめていたものであると思われます

したがって、大和政権への従属の遅れた地域では、かなり後までこの墓制は残存し、埼玉県桶川市熊野神社古墳が4C末から5C初めにかけて築造された時点でも、大和政権による充分な権力の掌握はできず、周辺の農業共同体では方形周溝墓が作られており、鍛冶谷・新田口の方形周溝墓に代表されるように方形という概念は若干くずれるにしても、古墳と方形周溝墓は並存していたと思われます