入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [7]

昭和35年(1960年)頃以降、日本は高度経済政策によって大規模な国土開発の波をかぶることになりました、このため、各地で埋蔵文化財(遺跡)が調査もされぬまま破壊されるという事例が激増しました、遺跡を点から面として広く保存しようという構想は、このような状況の中で、昭和38年頃に芽生え、文化庁が積極的に「風土記の丘」構想として推進したものです

埼玉県では「さきたま風土記の丘」構想を昭和39年頃にまとめ、用地の確保にのりだしました、行田市埼玉を中心とする「埼玉古墳群」は、県内の最有力古墳群であり、ここを「さきたま風土記の丘」として、広域保存をめざしました

埼玉県教育委員会は昭和43年8月に、すでに前方部の封土が切り売りされて破壊されていた稲荷山古墳を発掘し、2個の内部構造を発見しました、調査時の稲荷山古墳は前方部を失い、後円部のみで、その長さ45m、周囲180m、後円径55m、高さ9mとなっていました

しかし「風土記の丘」構想では、この前方部を失っているということが、この古墳群の実態を把握する好個の対象となったのでしょう、ところが、発掘の結果は、この古墳の主体が粘土槨と礫槨というともに古様な異なった様式であり、その後者から金錯銘鉄剣等の出土を見、また、その115文字の金象嵌の長文と内容は多くの考古学者、古代史家を翻弄させることになりました