2009-12-24 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [8] 稲荷山古墳は前方部が失われていましたが、そのありし日は主軸の長さ117mに測られる前方後円墳の外観を示し、埼玉古墳の北辺の一隅に、その堂々たる姿をみせていたことでしょう、前方部が削りとられたのは、昭和13年頃で、遠い過去の話ではなく、埋め立て用の土にするため、削りとられたのです、しかし、幸いにも、昭和11年に明治大学教授後藤守一氏は、東京国立博物館の三木文雄氏とともに、その実測図を作製していたのです、もっとも、この時は墳丘の実測を中心としており、この周りの地下に2重の周濠が埋没していたことなど気付くよしもなかったのです 埼玉県が1966年(昭和41年)、埼玉古墳群を「風土記の丘」として整備することになった際に、古墳1基を発掘し、横穴式石室の内部を見学してもらう計画が立てられました、どの古墳を掘るべきか、関係者は思案をめぐらしていました、第1候補はもっとも小さい愛宕山古墳のようでした、小さいので、発掘調査は容易であるが、完全な形を保っているので、掘ってしまうのは惜しい、第2候補が前方部が壊されていた稲荷山古墳だったのです、検討の結果、稲荷山古墳を発掘調査することに決定されたのです 1968年(昭和43年)8月1日から、埼玉県教育委員会の柳田敏司を中心として、発掘調査が始められました、調査は後円部上の主体部に集中され、周辺の調査には手を伸ばすことはできなっかたのです、したがって、周濠などはなお未知のまま発掘が進められました しかし、昭和44年1月に航空写真を撮影したところ、墳丘の4周に、長方形の2重の周濠の跡がありありと写し出されていたのです