入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [9]

昭和43年8月1日から調査は始まりました、柳田敏司氏や斎藤忠氏(元東京大学教授)等の調査指導部は、東日本の古墳の中には、たとえ時期の下降する古墳でも横穴式石室でなく、原始的な棺槨が墳丘上に営まれてあることが多いという考察のもとに、横穴式石室の調査を墳丘南斜面で行い、結果が思わしくないので、すぐに墳丘上部の調査を行いました

後円部はかなり低平であり、上部の土もすでに削りとられていて、遺構も消滅した懸念もいだかれていました、しかし、幸いにも二つの槨が残されていました、ひとつは粘土槨であり、ひとつは礫槨というべき形式のものでした、表上から約30cmぐらい掘りさげると、まず礫槨を構成した石塊の上表面が、あたかも船形の周部を画くすように表れたのです

墳丘上に2つの施設があったのです、礫槨は、南北に長く横たわっており、上頂部の西寄りにありました、粘土槨は、はぼ東西に長く横たわり、上頂部の南寄りにありました、いずれもが墳頂の中心からはずれています

粘土槨は東日本でも、類例はしばしば見られます、古式の古墳に多いのですが、長くしかも比較的狭く、あたかも船のような外観を示して、墳頂の中央に堂々と横たわる例が多いようです、ところが、ここの粘土槨は長さ5.8m位のもので、粘土槨と呼んでいますが、船形の細長い擴に粘土をわずかに張りつけた程度の粗末なものであり、重厚な粘土槨に比らべ、かなり見劣りのするもでした

礫槨は20cm内外の石塊を周壁にも積んでおり、内側の輪郭で、長さ約6m、幅約1mぐらいのものです、それぞれ構造を異にした2つの遺骸埋葬施設があったのです、この1つ1つの施設には、おのおの1人の被葬者が葬られていた事は確実です、同一の墳丘上に2つ以上のこの種の施設がある場合、並列していることが多く、そして、2つ並葬されている場合、夫婦を葬った合葬古墳とみなされるものが多いのです

しかし、稲荷山古墳の場合には中心部をはずれ、しかも、あたかも逆L字状に、又は、八字状に横たわっているのです、2人の被葬者は、何故、このような不自然な組み合わせで埋葬されたのでしょうか、大きな課題となるところです