入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [10]

粘土槨と礫槨はその高低に差があり、わずかではあるが、上下にまたがる箇所もあることから、2つ同時に営まれ、2人の被葬者がそれぞれ同時に埋葬されたとは考えられません、粘土槨のほうがやや深く、礫槨はやや浅くあり、粘土槨の西の端の外廊の一部は、礫槨の下に見られるからです、このことは粘土槨の方が時間的に先行することを示しています

しかし、先行するといっても、内部から発見された副葬品や営造の状態から考えると、いちじるしい時期のあるものとも見なさされないようです

2つの槨が並列していないことは、これらを夫婦とは考え難く、また墳墓として最も中核であるべき後円部の同一頂上部に設けられていることは、身分差のある主従関係とも思われません

では、性別はどうでしょうか、礫槨の被葬者は、その副葬品の上からみると、鉄剣2、鉄刀4、鉄鉾1、挂甲1具分、馬具があり、男性であることは間違いないようです、粘土槨は、後世の撹乱盗掘があり、当時納めたままの副葬品は完備されていなかったのですが、鉄刀片、挂甲小札片、鉄鏃片などが発見されています、これを男性とするほうが適切かとも思われますが、しかし、これだけの残存物からただちに男性と決めることも危険です、古代の墳墓で、若干の鉄刀や挂甲ぐらいが伴出していても、それが実際は女性と考えられるものもあるからです

とにかく、稲荷山古墳には、同一家族とみなされる2人の被葬者が葬られたのです、先に営まれた粘土槨の被葬者は男性であったでしょう、しかし女性と考えられぬこともない、後に営まれた礫槨の被葬者は男性でしょう、でも、稲荷山古墳は、その中の誰のために、本来営造されたのでしょうか、2重の周濠をまわりにもつ前方後円墳の主人公は、粘土槨の被葬者であったのでしょうか、礫槨の被葬者であったのでしょうか