入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [24]

更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる

◇ 斎藤忠氏(東京大学大正大学教授)の考察 ②

更に、同氏は「この時代に、寿墓という方法が通常であったと考えるとき、稲荷山古墳も同じケースのものとみてよい、稲荷山古墳のみでなく、丸墓山古墳も、二子山古墳も、やはり寿墓と考えてよい、埼玉古墳群が、一つの墓地として被葬者のグループたちによって選ばれ、そこに、それぞれ、自分のやがて永遠の眠りにつくであろう墓が営まれていたのだろう、彼等は、この築墓にも足を運び指示をあたえたかもしれない」

「稲荷山古墳は、その主体者は、粘土槨の被葬者でなく、礫槨であった、それは、その構築や規模の上からも判断される」

「礫槨の被葬者は、すでに生前に寿墓としてこの墳丘を営んでいた、たまたま家族の一員が死去した、自分の埋葬を予定した中心部ををさけて、その死者の埋葬をした、やがて、己れの遺骸が埋められるとき、中心部を選ぶとすれば、粘土槨にまたがる部分が多い、墓としてはまずいやり方なので、これをさけ西寄りにした」

「この頃、北に頭部を向けて遺骸を安置することも葬法として最も普通なものであり、当然、古墳の主人公であった礫槨は、その常套な方法を採用したのであった」

「いかにも推理のようで、飛躍的な考え方かもしれないが、稲荷山古墳の二人の被葬者の場合は、これを考えることによってその謎が解かれるのである」としている