入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [23]

更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる

◇ 斎藤忠氏(東京大学大正大学教授)の考察 ①

同氏は、稲荷山古墳の被葬者は2人で、粘土槨の被葬者の方が、時を先行して葬られたこと、しかもそれらが並葬されず、かなり不秩序な位置にあることが問題であるとしている

そして、古墳を始めとして、縄文時代以降の古代の墓は当時の人々の葬送儀礼という行事の具現であるとし、当時の人々の精神生活を基層とした厳粛、崇高な儀礼によってなされたものであり、墓制文化の考察は、このような問題が常に把握されなければならないと云う

稲荷山古墳も、被葬者の死、もがりの儀式、埋葬の儀礼は、さきたまの崎の一角で行われたであろうし、また、埋葬後のまつりも続けられたであろう、神聖な霊地の墓地として埼玉古墳群は、その子孫や関係者によって保持されたのであろうとする

117mの墳丘は、二重の周濠をそなえることと併せて、その築造は並々ならぬことであり、二重の周濠からとりあげた土壌は、墳丘の盛り土にも利用されたに違いない、低湿な地にある土壌は、その運搬や乾燥にも大変な労力を要したであろう、少なくても1年以上の期間は、この築造に費やされたであろうと考えられるとしている

1、2ヶ月の突貫工事で出来上がったものではない、だとすれば、その間、死者の遺骸は喪屋に安置し、祭りを続けていたのであろうか、その死臭は耐えがたいものであったろうとする

そこで、同氏は、壮大な前方後円墳などの築造の場合は、すでに、生前に営む、いわゆる寿墓という葬制が、むしろ通常のもであったと考えられ、寿墓は、当時において最も広く行われた葬送儀礼の一つであった考えられるとしている