入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [34]

更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる

◇ 高橋一夫氏(埼玉県立博物館長・近著「鉄剣銘115文字の謎に迫る」より)の考察 ②

「1997年の調査では、後円部北東コーナーの内濠から土師器坏2点と高坏5点がまとまって出土している、高坏は5世紀後半の和泉式土器の特徴を残している、稲荷山古墳出土の須恵器と土師器に類似する資料が鴻巣市新屋敷遺跡の古墳から出土している、新屋敷遺跡では、6世紀初頭に噴火したと考えられている群馬県榛名山二ッ岳の火山灰(FA)が良好な状態で確認された」

「 稲荷山古墳と同時期の土器はすべて周濠内のFA層より下層で出土していることから、少なくても6世紀初頭を下ることはなく、5世紀末に位置づけることが妥当である、こうした点からも、辛亥年を471年とする説は支持できる」

「稲荷山古墳の築造年代は5世紀末で、FA降下以前であることが確認できた、白石太一郎氏(国立歴史民俗博物館教授・大阪府立近つ飛鳥博物館長)は鈴杏葉の編年から、礫槨出土の鈴杏葉はTK47型式より新しいMT15型式の古段階にともなうものであり、発掘された2基の主体部はいずれも中央部に位置していないことから、TK47型式期の未発見の主体部が存在すると考える」

「つまり、未発見の主体部に埋葬された人物のために稲荷山古墳が造営されたとみるのである、そして、礫槨の人物は、父ないし兄である族長の意を受けて杖刀人としてヤマトに上番し、ヲワケノ臣と特別の関係を築いて剣をもらい、死後、副葬された可能性が高いとみる」

「古墳の多くは複数埋葬を拒否するかのように墳頂部はせまい、稲荷山古墳の墳頂を観察すると、後円部の墳頂平坦面は、実測図をみてもわかるように広い、つまり、稲荷山古墳は築造当初から複数埋葬を想定していた可能性がある」

「複数埋葬を前提として築かれた古墳とすると、多くの研究者が指摘するように、さらに埋葬施設が存在する可能性がある、礫槨より古い埋葬施設が存在するとなると、辛亥銘鉄剣とともに埋葬された者のために稲荷山古墳が造営されたとは考えられないので、その被葬者は在地の人物である可能性が高まる」