入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [33]

更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる

◇ 高橋一夫氏(埼玉県立博物館長・近著「鉄剣銘115文字の謎に迫る」より)の考察 ①

「1936年に稲荷山古墳の前方部が破壊されたとき、南東側くびれ部から須恵器と土師器が採集され、=伝・稲荷山古墳出土資料=として扱われてきた」

「1977年に北西くびれ部(後円部を上にした場合、左側)の調査がおこなわれ、無蓋高坏(むがいたかつき)2、坏蓋1、坏2、ハソウ(穴の部分に竹、筒、管をさして中の酒などを注いだり、吸ったりしたと思われる須恵器)1、有蓋脚付短頸壺(ゆうがいきゃくつきたんけいこ)の1個体が出土した」

「この坏のうち1点は少破片であったが、かって出土した資料と接合した、これで先の資料は稲荷山古墳出土であることが確定し、一級資料となった、そして、須恵器は右くびれ部ではなく、左くびれ部から出土したことも判明した、左側のくびれ部近くの後円部には造り出しが存在することから、本来はそこにあったものであろう」

「須恵器の編年作業は、大阪府陶邑窯跡(すえむらかまあと)の発掘資料を基におこなわれ、体系化されている、稲荷山古墳出土の須恵器はこれまで多くの研究者が年代比定をおこなっているが、TK(陶邑窯跡高蔵地区の略)23型ないしTK47型式の特徴を示すという点で一致している、田辺昭三は、TK23型式とTK47型式間に西暦500年を想定している、TK47型式とみる研究者も同一型式のなかでも古い段階とするので、須恵器は5世紀末と考えていいだろう」