入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [32]

更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる

◇ 斎藤忠氏(東京大学大正大学教授)の考察 ⑩

「鉄剣の銘文を金象嵌させた人物は、銘文の内容の主人とみなされるヲワケノ臣その人であることはいうまでもない、所持者もまた彼であったことは明らかである、しかし、この鉄剣が、遺骸のそばに副えて置かれたとしても、この遺骸がヲワケノ臣その人であったかということは問題がある、鉄剣の銘文を金象嵌させ、ある時点に所持していたヲワケノ臣から別な人物のAの手に渡ったこともありうる、さらに、Aから他の人物のBに転移されたことも考えられるからである」

「もし、辛亥年が471年とすると、鉄剣の在世は30年以上継続しているので、その可能性は大きいと考えている、しかし、531年とすると、その可能性はうすらぎ、むしろヲワケノ臣その人が被葬者であったとする公算が大きいと思っている」

「この場合、埼玉古墳群を一つの墓地とした被葬者たちは、国造に関係した地位の人々であったとみるべきであろう、埼玉古墳群をいだく土地が武蔵国とみてよいであろう、武蔵の国造がいつ設定されたか、言い換えれば、武蔵国造のもとになったのはいつからであったかは問題であるが、少なくとも、6世紀に至ってのちはその政治的な体制が整っていたと考えたい、そうすればヲワケノ臣その人も、やはり、国造一家の一人であったことは考えてよいであろう」

「もっとも、その祖先の七代の多くが、すべて国造の地位にあったかどうかは、七代がすべて実在したかどうかという問題とも関連するものであり、簡単にはいえない、ただ埼玉古墳群の中、最も古い系列におかれる丸墓山古墳と稲荷山古墳との被葬者は、国造としての地位を保った人々であったのであろう」

「では、鉄剣製作の背景はいかに考えられるであろうか、その製作の目的はおおよそ二つ考えられる、(1)祖先からの系譜をつらね、自己の功績を誇り高くうたいあげた記念碑的なもの、(2)ある特殊な必要性のために記した文書的なもの」

「(1)の場合、531年は安閑天皇の年でもある、もし大胆な推測が許されるならば、かつて皇室に仕えた各地の人々が都に上り慶祝する機会があったとき、それぞれの自己の発注の銘文を彫らせ、これを郷里に持ち帰ったというようなケースもあったかも知れない、もしそうだとすれば、この有銘鉄剣もその一つであったとも思われる、(2)の場合、特殊な必要性という問題を考えるとき、安閑天皇元年における武蔵の国造の地位の係争の問題を無視することはできない」

もし、この頃、武蔵国造の地位をめぐる係争がつづいていたとすれば、鉄剣製作にも(2)の目的のほうに重みがあるようである」

「もう一つ考慮しなければならない点は、もし製作の目的が(1)の方であり、記念碑的なものとすれば、家宝的なものとして、より永く子孫に伝えてもよいのでなかろうか、これが、遺骸に副えられて土中に納められたということは、その被葬者の死とともにそこに記された内容のものの意義が喪失したこと、いわばある事件が落着したということも考えられる」