入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [31]

更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる

◇ 斎藤忠氏(東京大学大正大学教授)の考察 ⑨

「ヲワケノ臣がこの有銘鉄剣を製作させたこと、ワカタケル大王が雄略天皇であること、しかも、この製作は雄略天皇のときであることを前提としつつも、なお531年と考えることも否定すべきではないと思っている」

雄略天皇のなくなった年次は、『日本書記』には『巳末年』とあり、巳末年は479年にあたる、しかし、『古事記』は、『巳巳年八月九日崩也』とする、巳巳年は489年にあたる、『古事記』の天皇崩年の干支が『日本書記』の記載と異なるものがある」

「『古事記』の崩年を採用しつつ、ヲワケノ臣の年譜を考えてみたい」

・紀元 489年  『古事記』によれば、雄略天皇はこの年崩じた、ヲワケノ臣、杖刀人の首として雄略天皇の斯鬼宮に仕えた(仮りの年20歳)

・紀元 531年  ヲワケノ臣、再度上京し、有銘鉄剣を作らしめた(仮りの年63歳)

「すなわち、ヲワケノ臣が531年に再度の上京のとき、若かった頃の栄光を回想しつつこれを製作させ、吾が根原に奉事することを記したものと考えるのである」

「何のために彫らせたのか、単に家門の栄誉としての記念的なものか、特殊な意味が含まれたかという問題がある、しかも、もし記念的なものとすれば、何故その子孫に伝世しなかったのかという疑問もおこる、もし特殊な意味が含まれていたとすれば、遺骸に副えて土中に埋めた時点においてその意味のものが必要でなくなったこと、換言すれば、埋納の時点において銘文の内容の必要性が消失したということも考えられるのである」