入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [30]

更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる

◇ 斎藤忠氏(東京大学大正大学教授)の考察 ⑧

「銘文の冒頭に記されている『辛亥年』について、多くの古代史研究者は471年とみなしている、この考えの誘因は、ワカタケル大王が雄略天皇であり、雄略天皇の在世は『日本書記』に記されているように、丙甲年(456)から己未年(479)であり、471年しか考えられないという点であろう、また、礫槨の年代が、その副葬品などから5世紀末から6世紀前半と考えられる点と矛盾しないというのである」

「しかし、稲荷山古墳の場合の副葬品は、挂甲・鈴杏葉・環鈴・鏡の類であり、これらと他の古墳出土の例と比較してみると、6世紀に下降するものが多い、なお、馬具の他のものにも、時代の下降するものがある、また、関東地方における横穴式石室の導入の時期から考えると、礫槨や粘土槨のような遺骸埋葬施設も、6世紀以後にも存続していた可能性も考えられる」

「このような点からみると、礫槨の年代は、やや広い幅をもたせたとしても、6世紀の前半であり、強いていえば、6世紀前半の中葉ぐらいに位置づけることも不可能ではないだろう、したがって、辛亥年は、古墳の年代から考えると471年でもよく、531年でもよいということになる

「辛亥年を471年とすると、これが製作されてから30年の在世の期間があったことになる、531年とすれば、製作されてから短い期間をへて、死者とともに納められたことになる、鉄剣そのものから、30年以上の在世のものであったか、わずかな期間だけ在世して直ちに土中に埋められたかを判断することは困難である」