入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [27]

更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる

◇ 斎藤忠氏(東京大学大正大学教授)の考察 ⑤

「稲荷山古墳の被葬者は二人であったが、その中、礫槨に葬られた人物が、古墳の主人であったと考えられる、では、この被葬者は、どんな人物であったろうか、男性ではあるが、その年齢は明らかではない、前方後円墳の大きさから考えると、当然豪族的な地位にあった人である」

「埼玉古墳群の中で、丸墓山古墳の円墳や二子山古墳の前方後円墳などは、稲荷山古墳の前後として、あまり時期差もへだたつていないことを考えると、これらの古墳を当初に営造した墓地は、互いに豪族としての家系的なつながりをもっており、やがて、その家系の関係者の中から、丸墓山古墳、二子山古墳、鉄砲山古墳など一群の前方後円墳を営造した被葬者も出現したもであろう、そして、将軍山古墳という終末期の古墳をもって、その墓地の営造も終止符をうったものであろう」

「同一の家系のつながりを考えると、稲荷山古墳の被葬者もその一人である、しかも、丸墓山古墳という径100mもある円墳をはじめ、同一の向きをもってまとまった地域にある例は、全国的にも珍しいことである、この墓地をもつ被葬者たちの家系は、いわば国造(くにのみやつこ)クラスあるいは国造一家ともいうようなこの地域における最高のレベルにあった人びとによって組み立てられたものであろう」

「武蔵の国の一角を占め、古墳群として最も顕著な存在を示し、かつ6世紀前半から7世紀にわたって、その主流が存在したとみなされる、埼玉古墳群の被葬者たちは、武蔵国造一家とみなしてよいではなかろうか、そして、稲荷山古墳の被葬者もまたその一人であった」