2010-01-15 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [28] 更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる ◇ 斎藤忠氏(東京大学、大正大学教授)の考察 ⑥ 「稲荷山古墳の被葬者は、挂甲〔ケイコウ、小さな鉄板(小板、コザネ)や革をとじ合せた鎧〕一具分を所有し、馬具としての鈴杏葉、環鈴などを所持し、四本の刀と一本の鉾と二本の鉄剣とをもっていた、装身具としては、頸飾りに用いたであろう硬玉の勾玉一個と、耳飾としての銀環一対とがあった、頸飾りは、管玉などを連綴しておらず、紐条のようなものの突端に勾玉を下垂させただけのものであった、冠はない」 「佩装品として見事なものは、鈴を垂らした帯金具である、布または皮のバンドにこの帯金具をとりつけ、腰のまわりをめぐらした、現在のバンドのようにきちんとまきつけず、ややゆるみをもって前の方は垂らしたものであろう、しかし、儀式などに、これを佩装したとき、静かに歩くごとにその鈴はゆれ動き、たえな音をひびかせたことであったろう」 「そして、彼は一面の鏡をもっていた、この鏡は中国から畿内にもたらされ、畿内から彼に直接に、または、彼の関係者にもたらされ、彼自身の手におさまったものであったろう、一連の帯金具も、東日本では珍しい立派なものであり、あるいは、鏡と同じ流動をたどったかも知れない」 「 もっとも、これらの持ちものは、副葬品だけから考えたものであり、このほか関係者の手にわたったりなど、現品をとどめないものもあったと思われる」