入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

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川口の古を考える

外谷田遺跡・大字根岸字外谷田2985-1他地点調査 [5]

川口市において、古墳時代後期と思われる竪穴住居跡が自然堤防上で検出されたことは、大きな意義をもっていると思われます、すでに、石御堂遺跡からは鬼高期の土坑が、二軒在家遺跡からは和泉期の周溝墓が検出されていますが、居住を示す住居跡が自然堤防上で検出されたのはこの調査が初めてです

この調査地点の北東約850mに位置する道合高木前遺跡も古噴時代後期と判断されます、東から入る開折谷の谷頭を囲むように形成されており、その背後、つまり西から北西にかけて芝川の形成した広大な見沼低地の南端部が広がっています、この遺跡は見沼川が大宮台地中央部より流下し、その中流域を形成したあと台地の南端を迂回するように、その流路が西南西に湾曲する位置にあります

古墳時代に芝川の果たした役割は、毛長川ほどは判明していません、ただ、その源流を大宮台地に発する小河川ですが、近世以降、舟運の発達した時代におけるその役割の重要さから考えると、古墳時代に既に物資や人の往来に芝川が重要な役割を果たしていたと思われます

旧編「埼玉県史」によりますと、道合高木前遺跡のある神根地区には、勾玉を出す古墳があったことが記されています、その場所を特定することは出来ませんが、毛長川同様に芝川もまた古墳時代の内陸への物資輸送に欠かすことのできない河川であったのでしょう

東京湾から遡る船は、荒川(?)と芝川との合流点を経て芝川に入り、自然堤防の発達した下流域を北上し、台地先端にさしかかり、大きく迂回する流れを遡り台地上に道合高木前遺跡の集落(?)を眺めながら見沼低地(大宮台地を南北に分断する開折谷)へ進入し、台地の北方に広がる加須低地、そして利根川流域に形成された文化圏へとつながっていたのでしょう

このように道合高木前遺跡の立地を考えると、台地先端にあって北から南へ流下する芝川の湾曲部を一望できる地点にあり、軍事的・経済的に重要な場所ということになります、併せて外谷田遺跡との関係を考えると、台地直下に形成された自然堤防上の遺跡が外谷田遺跡ということになります

外谷田遺跡における古墳時代住居跡の発見は、単に台地から低地へ居住空間が進出・拡大した現象としてではなく、より機能的に解釈するべきでしょう、つまり、毛長川や芝川の舟運とその重要性をもとに、自然堤防上の遺跡の性格を考える必要があるのでしょう、これらの遺跡は交易あるいは物資輸送の中継地だったのかもしれません、芝川の流域にあって台地と低地の接点という重要な地理的位置を占めていたということが言えるかもしれません