入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

イメージ 1

イメージ 2

『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-③

1333年の新田義貞による鎌倉幕府打倒に続く南北朝時代(1336年から1392年)の武蔵の国の武士等には小規模ながら戦が続き、その変転はめぐるましく今日の味方は明日の敵となり、その拠点の確保に懸命になったようです

彼らにとって水の確保・水運の便・水田耕作地の開拓の便などの生活面や、軍事的に重要な所を押さえることは重要なことだったのでしょう、その結果、そのような条件を満たす所は必然的に古代からも開発され、中世でも同じ場所で重なっていることが多いようです(最近の発掘調査では古代の遺物と共に中世の遺物もかなり見つかっています)

推測される地形などから考えると戸田市の南町・南原・上戸田本村遺跡付近(現在の多福院付近)、鍛冶谷・新田口遺跡付近(現在の新田口公園付近)、前谷遺跡付近(現在の上戸田福祉センター付近)、現在の根木橋妙顕寺・観音寺付近、蕨市の現在の本法院・三学院付近、川口市芝の現在の長徳寺付近はそのような意味で重要な地点であったと思われます

そして、このような状況の中で、1351年12月に「観応の擾乱」(足利尊氏足利直義との政治路線をめぐっての対立ですが、羽祢蔵合戦・難波田の戦いとも云う・もその一つです)が起きます、この羽祢蔵合戦は富士見市志木市さいたま市戸田市蕨市他のなどの武蔵の武士に大きな混乱と影響を与えたようです