入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える

◇三ッ和遺跡6次調査考察・続

鳩ケ谷市に関する中世の文献史料はあまり多くはないが、鎌倉時代の13世紀後半と室町・戦国時代の15世紀後半から16世紀末に集中して見られる、当調査地が営まれた13~14世紀の歴史的背景について文献資料を概観すると、吾妻鏡の寛元元年(1243)3月12日の条に地頭と思われる鳩谷兵衛尉重元が幕府の臨時評定に参じて武蔵国足立群内鳩谷の地頭職の事について言上している

また、建長8年(1256)6月2日の条には、奥の大道(鎌倉中道)に近年夜盗強盗が出没するので幕府は大道沿いの地頭24人にその警護を命じており、その中に鳩井兵衛尉の名が見える

鎌倉市光明寺文書である文永9年(1272)正月16日の良忠譲状では、武州鳩井にある悟真寺の免田を僧の良忠が子の良暁に与えるとの内容が記されている、悟真寺は光明寺の前身で執権北条氏から帰依を受け鳩ケ谷に免田を与えられていた寺であった

更に、現在は川越の喜多院にある重要文化財の梵鐘は、その銘文から正安2年(1300)2月18日に、沙弥の慶願が母の命により武蔵国足立郡鳩井郷にあった筥崎山に奉納したことがわかる

以上の記録から、13世紀後半の鳩ケ谷地域は、鎌倉中道で鎌倉幕府と直結し深い関係を有する地域であったことは確実である、この調査では、東海地方からの搬入陶器とともに中国からの舶載陶磁器が高比率で出土していることは、中世都市鎌倉で出土する陶磁器と共通する点が多く、文献史料から理解される内容を裏打ちしているものと考えられる、文献資料と発掘調査結果により、調査地は、出土する陶磁器の量質の様相や大溝跡・井戸跡・多数の小穴の存在などから鳩ケ谷地域の有力者の居館が想像される