入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える・三ッ和遺跡・八幡木2-6-3、4地点調査

<各時代の遺構を見てみる>

【江戸時代初期】

第2・6溝跡2条と第2・3・4号井戸跡の3基が江戸時代初期の遺構と思われます、溝の形態は「薬研掘」で、自然堤防上を大きくカーブして横切り、何回かの掘りさらいがみられます、遺物の出土が極端に少ないことから、耕作地における灌漑用水のように考えられます、遺物からみて十七世紀代とみられます

3基の井戸跡は、円形の形態で「素掘り」です、第3号に関しては一段掘り込んだ楕円形の竪穴に円形の開口部を作っています、竹かごが素掘りの竪坑壁面に付着しています、単なる給水施設だけではなく、井戸底に物が沈まないように竹かごによって保護したことが考えられ、水に物をひたしたりする行為などがあったようです、出土遺物からやはり十七世紀代とみられます

当時の社会的背景としては、徳川家康の入府後、当地は阿部氏の知行地となり、その後幕府直轄地として伊奈氏の支配となります、寛永六年(1629)に伊奈忠治は、関東郡代として足立郡赤山領に陣屋を構え、そこを拠点に武蔵国足立郡及び下総国葛飾郡において新田開発事業を行いました、調査地周辺は、十七世紀中頃には武蔵国足立郡平柳領中居村に位置し、第2号溝跡を灌漑用水路とすれば自然堤防面を畑地として利用していたと思われます