入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える・三ッ和遺跡・八幡木2-6-3,4地点調査

<各時代の遺構を見てみる>

【戦国時代】

第1号溝跡1条とそれに付帯するものと思える第3・4・5及び22号小穴と第3号土坑の1基が戦国時代のものと考えられる、第1号溝跡は、方形区画を意識した箱薬研形状の「空掘」です、溝の方向性は東西及び南北軸に意識的に合せています、南辺溝は東辺溝に比べ幅広く掘られ、その南辺溝の底面からは一対の方形の掘り方が確認されます、その掘り方は一辺50センチ前後、深さ35~40センチです、柱痕は明確ではないが、土壌の違いは認められ、おそらく橋脚を建てたものと考えられます

方形区画のコーナー部分から一対の掘り方間中央までの距離は、20メートルです、掘り方相互の間隔は、1,8メートルです、この掘り方と第3・4号小穴の配置などから、「空掘」には「橋」がかけられていたものと思われます、また、当然、区画内側には「土塁」が築かれ、橋部分には南面に開口する「門」が存在したようです、溝跡からこの時代に当たる出土遺物は、非常に少なく、上物は全く認められていません、したがって、土豪の「館」や「寺院」の跡というよりは、非日常的な有事の時に使用する「砦」のようなものが想定されます

第3号土坑は、直径4メートル、深さ1,6メートルのすり鉢状の大型土坑です、掘り込みは深く湧水層まで掘りぬかれていることから、井戸と同様の機能をもち合わせています、しかし、中世に於いても井戸の構築方法は、竪坑を素掘りしたままが一般であるので、この遺構のように開口部が広いのは、更に他の機能を配慮した可能性があります、例えば「溜め池」と考えれば、給水用、天水溜め用の他、防火用としたものとも考えられます

出土遺物から、年代としては十六世紀前半が想定されます、調査地周辺は、武蔵進出を図る小田原北条氏とそれを阻止しようとする岩付太田氏の競合地域にあたり、第1号溝跡は正に戦乱の世を彷彿させる遺構のようです