入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える・三ッ和遺跡・八幡木2-6-3,4地点調査

<各時代の遺構を見てみる>

平安時代初期】

第1号及び5号井戸跡の2基、第1及び2号土坑2基と第18号小穴1基が平安時代のものようです、井戸跡は「素掘り」の形態で、開口部の平面形は、円形を基調としています、掘り込みの深さは、第1号では1,1メートル、第5号で1,7メートルです、掘り込みの深さについては、本遺跡八幡木1-2-1地点で1~1,5メートルと同様のようです、また、毛長川左岸の自然堤防にある草加市蜻蛉遺跡でも同時期の井戸の掘り込みは浅いようです、当時、滞水面が比較的浅かったことがうかがわれます

土坑は、いずれも人為的な埋め戻しの状況が観察できますが、その用途については不明です、また、第18小穴も単独検出のため、用途は不明ですが、灰釉陶器皿と認められる破片が出土しています

出土遺物は須恵器杯、土師器杯と土師器甕が、井戸跡及び土坑から認められます、須恵器杯は北武蔵南比企窯跡群の製品のようです、土師器杯は下総地域産のもののようです、甕も下総産のもののようです、こうした特徴から土器の年代観は九世紀から十世紀前半とみられます

また、いずれの遺構からも、点数に多少の違いがあるものの焼成粘土塊といった特記すべき遺物の出土がみられます、この焼成粘土塊は、例えば土製支脚などを破砕したようなもので、大きさにはばらつきが見られます、井戸や何かしらの機能を果たした土坑の廃棄時にこうした遺物を入れる行為がみられ、祭祈的なものかどうか、今後、本調査地周辺の平安期の遺構・遺物の特徴として考えていかねばならないようです

この発掘区空間においては、竪穴などの住居跡は確認されていません、これは、集落内における居住域と耕地などの生産域といった空間利用の違いによるものと考えられます、また、井戸ほか遺構の掘り込みの浅い状況は浅い滞水面に関連することと、更に根本的には平安期の小海進が低地の微高地に物理的制約を加えたものと考えられます