入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

米づくりの技術をもたらした人々・弥生人について考えてみる

<稲作の始まりとつたわり>

ー 各地の稲作遺跡・続 -

1981年には唐津市で、稲作遺跡の代表例と言われている「菜畑遺跡」が、発見されています、唐津湾の奥の虹の松原と呼ばれる砂丘の内側にある潟の周辺には、古代の遺跡が集中しています、「菜畑遺跡」は、この潟に流れ込む川によってできた小さな谷にあり、かってはこの谷のすぐ下まで潟が入り込んでいたようです、この遺跡では水路と丘陵に挟まれたところから、弥生早期といわれる土器と水田跡が出土しました

谷の中央部に幅1.5~2.0メートルの水路を掘って、この両側に土盛りの畔によって区切られた小規模の10~20数平方メートルの水田がつくられたようです、小規模な工事で水田が造成されたという意味では、最も初期の形のようです

丘陵部には住居跡があり、竪穴式の住居と、高床式の建物があったようです、丘陵の端には、土止めの杭の列があります、石包丁(収穫具)、扁平片刃石斧、蛤刃石斧(木工具)、磨製石鏃(矢の先に付ける尖った刃)、全面に黒漆を塗り、赤漆の細かい線で幾何学模様をつけた漆製品などが出土しています

その後100年ほど下がる時期に作られたと思われるところでは、水田跡は前と同じく小規模ですが、水路には矢板を使用し、谷中央部から丘陵の端に作りかえられているようです、農耕具の種類も多くなり、木製の鍬、えぶり(土を細かくして平らにする柄のついた農具)、馬鍬(水田の砕土に使う道具、必ずしも馬に引かせるのではない)などが加わっています、弥生時代になると、水田跡はいっそう大規模なものとなり、水路も幅4~5メートルとなり、両岸に畔と中央に堰を作っていたようです