入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

米づくりの技術をもたらした人々・弥生人について考えてみる

<稲作の始まりとつたわり>

ー 各地の稲作遺跡 -

長江中下流域や朝鮮半島西南部で経験した稲作技術をもとに、日本列島に着いた弥生人は、湾や潟に接しているところを重視して入植したようです

北九州地方では、福岡市の板付遺跡とその近くの野多目遺跡があります、両者は水系を異にし4キロメートルほど離れていますが、博多湾に注ぐ川の自然堤防とみられるところにあります、博多湾唐津湾の奥には背振山地の深い森林があって、そこから年間を通じて水量の安定した川が流れています

板付遺跡では、古諸岡川という幅100メートルぐらいの氾濫原の東にある中位段丘の上に竪穴式の住居群があり、中位段丘のすぐ下に、人工的に幹線水路が造られていたようです、野多目遺跡では、板付遺跡の集落のある中位段丘に、人工的に幹線水路が造られています、それらの水路に井堰を設け、水田への水口を設けて灌漑していたようです、この井堰で1面か2面の水田に水を張ったのでしょう、板付遺跡の水田は、弥生前期、中期、後期、古墳時代にかけて拡大していますが、水田の形態そのものは5世紀の間ほとんど変化がなかったようです、すなわち、稲作農耕は、当初から非常に完成された姿で導入されたようです、雀居(ささい)遺跡は、板付遺跡のすぐ近くで発掘調査された初期稲作のあとであり、ここからは弥生早期とされる土器などが出土しています

福岡県の糸島半島の基部の唐津湾に臨むところにある二丈町の曲り田遺跡では1980年に30に及ぶ住居址と板付式より古い形の土器や大陸系磨製石器が出土しています、ここは地形からみて、かっては唐津湾に注ぐ一貫山川が流れ込む潟があったところで、遺跡はこの潟の中に突きだした低い半島にあったものとみられます、この潟の西側の奥には別の深江・井牟田遺跡があり、この辺に「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」の港があったのかとも云われています